印章の歴史
はじめに
印章の歴史を調べていくと膨大な文献や資料が有り、とうていこのスペースでは足りません。ですからここでは、印章のルーツを知ることによって 現在の"印鑑"を理解するという側面で捉えて行きます。
文字の歴史を調べてみますと、だいたい4000年位前にさかのぼります。
当然、印章はそれより後に出来たものと考えがちですが、実は、印章の歴史はそれよりずっと古く85000~8000年前には印章の原型とされるものが発見されています。 もちろん、文字の無い時代ですから、絵や文様などが彫られていました。
では、なぜ文字よりも"印"が先に必要だったのでしょうか?
通貨が出来る前の人類は、自分のものと他人のものを交換して社会生活を営んでいかなければいけませんでした。いわゆる物々交換の時代す。
文字の無かった時代にここにあるものは自分のものだと主張するのは困難を極めます。そこで、自分が所有している財産に、文字通り”しるし”「印」をつけて他人のものと区別する方法を考え出したのです。このことが「印章」の出来た理由の一つになっています。
つまり、本人の代わりに「本人のもの」である事を証明してくれる唯一の方法であり手段だったのです。人が社会的生活を営む上で何よりも先に「印」が必要になるのは必然だったのでしょう。
現在の印章も本人の分身とされ、所有の証として活用されていますが、何千年もの時の流れにさえも基本的な意味合いが少しもズレること無く現在まで続いているのは奇跡的なことだと言えるでしょう。
ともあれ、この頃のスタンプ印章や封泥、トークン、封筒等には、その当時の人々の様子や考えが浮かんできて大変興味深いのですが、本筋と離れてしまいそうなのでここでは省略したいと思います。
さて、時は流れて、文字が使われるようになると、文字を印章に彫り込むようになります。その頃になると印章には「権威」「信用」「神聖な魔力」と言うような意味合いが強まります。
一般ではメソポタミア地方で生まれた印章がインドを経由して中国へ伝わったと言われていますが。中国に住んでいた人々が伝わってくるのを指をくわえて待っていたとも思えないので、それぞれの地方で自然発生的に印が生まれてきたのは間違いないでしょう。発掘場所によって印章の特徴が違っているのもそのためと思われます。
古代では、紙に捺印するのではなく、石などで彫った印章を粘土等の柔らかいものに押し付けて"しるし"をつけていましたが、時がたち、約2000年位前、紙が発明されると、「印」で、紙に書いた書類の封印をすることによって、書類の信頼度を上げたり不正の防止ができるようになりました。不正や策略、盗難、裏切り等が多かった時代では、政治や商売、交易を行う上でも大変役立つ方法でした。
その後、中国では秦の始皇帝が全国を統一します、その際「文字の統一」と同時に「印制」を定めて役職階級に応じた「印章」を持たせる事で身分を区別できるようにしました。「印制」の内容は、使う印章の大きさ、材質、つまみの形状、腰に下げる紐の色まで階級に応じて厳密に決められていました。その「印」の形や紐の色が官職の階級をあらわしていたことから「印綬を帯びる」(印と綬(ひも)を身に付ける)といって、官職に任命されることを言うようになりました。今で言うと辞令をもらったというところでしょう。現在でも、総理大臣になる事を「宰相の印綬を帯びる」と言いますが、その語源には、やはり印章がかかわっているのです。
この印制によって「印」は権威・権力としての意味合いを強めていきます。
このように「印章」は、それによって人民を統治するほどの存在になります。このことからも印章は、ただの道具ではなく「象徴」「意志」「所有」「存在」のすべてを意味し、場合によっては本人以上に威力を発揮するものになっていきます。
現存する日本最古の印章は「漢委奴国王」の印です。日本の国宝で「金印」とも呼ばれています。実はこの金印も「印制」に則った考え方で役職を認めるのと同じく、日本を国として認めますよということなのです。未だに発見されていませんが、邪馬台国の女王「卑弥呼」にも、三国志時代の魏王から「親魏倭王」印を送られました。これも主従、いわゆる立場を表すしるしだったということです。
さて、日本での「印」の歴史ですが、、正確には中国から伝来した印章制度の歴史と言ったところでしょうか・・・それは、仏教伝来とほぼ同じ頃の600年前後だとされています。そして、大宝元年(701年)に大宝律令のなかで天皇御璽や太政官印などの官公印が制度化されています。内容は、官職によって「印」の大きさや種類、刻印する文字、使用目的などを細かく定められていて、その印自体が非常な権威を持つようになります。これは中国の「印制」にならったもので、主に官印や郡印、島印、寺社印、僧網印などで、原則として私印は作ることも使う事も禁止されていました。(「印」とは、それほど尊いものだと言う理由のによるものだと考えられます。)
もちろん例外もあり、758年、強権を握った恵美押勝(藤原仲呂)が、平気で私印を公文書などに押しまくり、周囲が黙認するというかたちで残ったものが、わが国最初の私印の公的使用になりました。(やっぱり権力を握ると何でもありのようです)
その後、平安時代になると貴族(公卿・武士等)のみに私印の使用を許していたようで、藤原一族の私印はたくさん現存しています。この藤原氏全盛の時代は、ご存知の通り、公私混同のいいかげんな政治だった為にだんだん官印を省略するようになり、変わりに、華やかな花押(文様化した署名)が流行っていたようです。
そして、いよいよ歴史は戦国時代に入り武将たちの間でさかんに印章が使われるようになります。この頃の武将の印影は、今も残存しているものが多く、印相の研究にも大変役にたっています。例えば永禄10年に彫られた、織田信長の"天下布武"で有名な印章がありますが、天正4年、それまでの印章を、奇態な降り竜二匹で同文を囲むような印に作り変えています。この事がその後の凶運に結びついたと見る側面もあり、歴史と印章とを比べて検証できる極めて興味深い時代です。
江戸時代になると武士以外の人々にも印章が少しづつ広がっていきますが、印章を持てない下層の人たちは「爪印」や「血判」「拇印」「手印」という方法で印章の代わりにしていました。
この様に徐々に一般にも普及しだした印章ですが、この状況が、島原の乱による幕府の政策によって大きく変化する事になります。というのも、キリシタン信者の増加に神経質になった徳川幕府は、それを根絶するための苦肉の策として、これまで一まとめだった一般庶民を個人として認識するために「印」を使ったのです。
その方法は、全国の庶民に、それぞれ寺院を定めさせ宗門帳に署名捺印をさせるというものでした。強制的に印章を持たせられた庶民は、図らずも、その他大勢から、ひとりの人間として社会的に認識されるようになりました。言ってみれば現在の戸籍や住民登録の始まりです。
キリシタンへの弾圧は大変厳しく、寺院に登録させるだけでなく、"キリシタンではありません"と言う証文への署名捺印を定期的におこなったために,全ての人が「印」を大切に保管しなければならなくなりました。これに従わないものや寺院に登録の印を持たない者、印が異なる者は、怪しまれて投獄され、多くの者が命を失うことになり、「印は命と引きかえ」と言われるようになります。
ここで、もし今、私たちが、"この時代に生きていたなら"と、考えて見ましょう。怪しまれるだけで命を失う時代にあって、もし不用意に印を落として欠けてしまったとします。そして捺印する時に、役人に、"前の印影と少し違うんじゃないか"と怪しまれた瞬間、あなたの運命が決まったとしたら・・・・まさに「生命と引きかえ」だったわけです。
少し話がそれましたが、こういった背景もあり「印」にはその人の運命を左右する何か不思議な力が秘められていると考えられるようになり、このころから「印」の吉凶を占う為の研究が始まり、享保や文政の時代に印相に関する書物なども出版され始めています。
徳川の歴代将軍も印相には大変気を使っていたようで、戦国武将の様な特殊な印を彫る事を嫌い、家康を除いて、皆が同じような(安定・安泰を意味する横彫り)印影になっているのには驚かされます。(印影参照)
元禄の頃になると、時代の安定とともに、一般にも実印、認印、封印、伝馬印など様々な印が使われるようになります。印の普及とともに「印」に関する犯罪には厳罰を持って対処されるようになり、印章偽造などの場合、磔、火あぶり、獄門などの重い罪に問われています。時代劇でよく聞く「市中引き回しの上打ち首獄門に処する」というのです・・・今で言う無差別大量殺人でもあるまいに・・とも思いますが、徳川幕府が、それだけ「印」を重要視していた証でしょう。
余談ですが、当時庶民の間では、印を押すとき朱肉を使う事は少なく墨肉が主流でした。これは当時、朱肉の原料である水銀の産出量が少なく、大変高価なためで、朱印状を受けた船だけが特別に御朱印船と呼ばれていた事からもうかがえます。
国が変わると印も変わるように、印が変わると国も変化します。江戸から明治への大転換期には、印章制度そのものも大きく変化することになります。
まず、官印の、内印・外印の名称廃止から始まり、内閣及び各省庁の印がつくられました。明治四年、天皇の「御璽」と同時に国の印鑑である「国璽」の印も新しく石材でつくり、「大日本国璽」と刻印しましたが、この印文の書体が粗く無気力の感が漂い、非常に評判が悪く、明治七年、天皇御璽、国璽の両印ともに、金印につくり直すことになりました。もちろんそれぞれの印の用途などは厳密に決められています。
次に、民間でもたくさんの変化があります。特に大きな変化として、これまで苗字の使用を認めなかった一般庶民に、苗字の使用を許したことです。これにより、これまで個人についての自覚が充分になかった人々に、個々の意識を持たせ、自分を表示する機会があたえられることになります。このことが、「印」とは切っても切りはなせない姓名判断法をより進化させ、印刻上でも大きな視点変換を余儀なくされました。
明治時代には、民間人の印についても法律で様々な事が決められています。
代表的なものに「庶民相互間の証文に、実印の無いものは裁判上の証拠にならない」というものと「証書の姓名の記入欄には、本人が自書し実印を押すこと。もし自分で姓名を書くことが無理な場合は、他人に書かせてもいいが、実印はかならずおさなければならない・・」という法案を作っています。 その後明治二十三年に印鑑登録制度が施行されました。現在、市町村の「印鑑条例」の基となっています。
このように、駆け足で時代を遡ってきましたが、現代に於いても「印」とは社会に向かって自分の信を示すためのものであると同時に、自己の財産、信用、その他を守るための大切なものです。そして歴史が示すように「印」とはただの「物」ではありません、出来るかぎり正しく、美しいものを使用し、決して軽々しく扱わないこと。そしてなにより、現在の自分にふさわしい印章を持つことが大切なようです。
昭和・平成・令和
昭和時代は敗戦で世界最貧国となった日本は、世界から二度と浮き上がれないと見られていました。
しかし、御存じの通り独特の文化と国民の勤勉さもあり、あれよあれよと世界2位の経済大国になります。
これを脅威と捉え、快く思わぬ勢力は日本の強さを徹底的に調べ日本の文化や国民性を内側から破壊しようと動き始めました。
平成時代でその試みは成果を上げはじめ、日本の成長は完全に止まります。
令和時代に入り日本の文化破壊は勢いを増し、ついに印鑑文化にまで手をつけてきました。
確かに少し前の日本社会は印鑑中心で、スムーズな業務に支障が出て来た感はありましたので、無駄な慣習の縮小は良いと思いますが、印鑑の持つ歴史や本当の素晴らしさを知らぬ(若しくは確信的)特定の政治家が全ての印鑑制度廃止を強行に押し進めデジタル社会へ変革させようとしています。広報ではさまざまなメリットを並べていますがデメリットには全く触れられません。
私たちは知らされぬうちに日本独特の素晴らしい文化をまた一つ失おうとしています。
日本を内側から弱体化させようとする流れは加速していますが、後年歴史で日本衰退のターニングポイントだったとしたくはありません。
私は、気づいた国民により日本の優れた文化を取り戻す流れが始まると見ています。
そして我々個々人も優れたものは後世に伝えていく努力を続けていきたいものです。